4畳半ファンク
近田春夫が書いてたこと。
サウンドはファンクなのに、その世界がファンクにならない理由は、小さいことにうじうじ悩んでる詞のせいだ。
苦笑しつつ近田御大の言に同意。
彼のファンク色よりフォーク色の方が好きな立場としては、しかし、どうでもいい話ではある。
黄金の月、月とナイフ、甘い果実のような古い曲、今でも大好き。
以下、大昔にあるところに掲載したテキストをのっけてみる。
書き直したいところも多々あるけど、あえてこのまま引用。
スガシカオが語られる際に良くでてくるのが、「狂気じみてる」というコメント。
みなさんはこれをどう思いますか?
スガシカオの詞の世界を「狂気」と表現するなら、この世界そのものが狂気の世界にということになってしまうのではないかな、と思います。
「あまい果実」でうたわれる、深い思いが熟していって黒ずんでしまうという感覚も、「狂気」というほどに特殊な感情ではないと思うんです。切ない感情―僕の場合は往々にして恋愛がらみのことが多いです。恋愛体質なもので―が募ると、その想いは少しづつ姿を変えていってしまうのは、ごくごく自然なんじゃないでしょうか。
嫉妬心がどうしようもなく煮詰まって、その結果相手に危害を加えてしまえば、たしかに、それはある種の「狂気」なんでしょう。でも、「これからむかえにいくよ」のように、電話の声に疑念を持ってしまって、気になって仕方ないからクルマを飛ばしていまから会いに行くっていうのは、方向としてはアタリマエなんじゃないかな。本当に部屋のドアをノックするか、部屋に引きこもって爪を噛んで思い悩むか、実際にどういう行動をするかは人によって違うでしょうが、「いますぐ会いに行きたい」という感情をもつのは誰でも一緒のはずだと僕は思うのですが。
なにか願いや想いがあるけれど、それが望むようなかたちで実現しないとき、それをあきらめてしまうケースと、あきらめきれずに思い悩んだり、考えつづけたりしてしまうケースがありますよね。
スガシカオの詞の世界は後者だとおもっています。
かなわぬ思いであっても、願いつづければ実現するかもしれない、という希望を歌ったのが「黄金の月」のような曲。
願いつづけてもどうにもならなくて、気持ちのやり場もない、というのが「あまい果実」。
こういう見方からすれば、根底に流れる「おもいつづける」ことは同じなんですよね。
そして、どちらもくるおしい状況ではあるけれど、狂ってはいないはずです。
Nov. 7th, 1999
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